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依上城跡

 画像:依上城跡

 押川中流左岸の標高約160mの河岸段丘の突端にあります。城跡の中央に平担地があり、北側はそれより一段低い傾斜地、さらに一段低い畑地がひらけ、南側は急勾配で押川を望めます。
『新編常陸国誌』に、「久慈郡塙村ニ在リ、即チ依上保ノ地ナリ、建武中興、朝廷結城氏ニ命ジ、保内ヲ管セシム、足利氏ノ時、北酒出顕義此地ヲ領ス、因テ氏トス、玄孫宗義ニ至り、山入氏ト共ニ、上杉禅秀ニ与シ、家亡フ、後チ復ビ結城氏ニ帰ス」と記されています。依上氏については同書に、「依上保ヨリ起ル、北酒出義資ノ二子顕義、弥次郎卜称ス、三子アリ、義教、義泰、義実ト日フ、義教播磨守、子アリ、義長ト日フ、式部亟和泉守、白河郡依上保ヲ食ム、因テ氏トス、足利尊氏ニ仕フ、子無シ、山入与義三子宗義ヲ嗣トス、三郎和泉守ト称ス、上杉禅秀ニ党スルヲ以テ亡ブ」とあり、義長、宗義の時代に依上保を所領としたことが記されています。
上杉禅秀の乱を平定すると鎌倉公方足利持氏は、応永29年(1422)、与義、宗義父子を滅ぼし、同30年、依上宗義の所領であった依上保を白河結城氏朝に預けました。その後、依上宗義の一族が挙兵して依上城に拠りましたが、正長元年(1428)に落城しました。『白河古事考』では、持氏が溝井六郎に対して、この依上城の合戦に対する感状を、応永35年(1428)3月6日、正長2年2月17日、同年8月19日の3通を与えたとされています。
現在も南ノ内、十二所、中城、場坂、十王平、戸ノ内、手崎、城下の小字名が残っています。

 

  • 区分:遺跡(周知の埋蔵文化財)
  • 種別:城館跡
  • 所在地:塙字中城564ほか
  • 時代:中世

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