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池田古館跡

画像:池田古館跡 

 西側は約20mの崖下を久慈川が流れ、東側は国道が通っています。館跡は、東西約50m、南北約70mの長方形状の台地です。北側と東側には、かぎの手に高さ約5mから7mの土塁を築き、幅約9mから12mの堀をめぐらしています。
『水府志料』には、「古館 滑川六郎重範といふ者住すといへり。佐竹家中文書目録に、天文五年三月十四日、義篤より依上池田之内外之内、滑川兵庫助とあり。重範と同人なるべきや、知らず。其地今畠となる。又同書、同年月日、依上池田之内横嶺竹之内、斎藤藤兵衛共みへたり」とあります。滑川兵庫助信通は、永正13年(1516)7月4日に佐竹義舜により、月居城在番に対して兵庫助の官途を与えられています。その後、天文5年(1536)に義篤が兵庫助に対して、池田の外之内を充行っています
斎藤藤兵衛秀俊は、天文5年に義篤より、池田横嶺竹之内を充行われています。また、子の平次左衛門秀治は、天正2年(1574)に義重から入野之内(福島県棚倉町)2貫文を充行われ、孫の河内秀道は、文禄4年(1595)に伊香(福島県塙町)の内40石を充行われています。
『水府志料』に、年代は不明でありますが某知行充行状(あてがいじょう)で、関彦三郎が、池田の桜岡屋敷を充行われています。また、文禄5年(1596)に、野内大膳亮が、池田で50石を充行われています。なお、池田の東側を走る稜線のほぼ中間、標高約220mの山頂に鏡城があり、藤原富得が築きました。その子孫の尊憲は天文年間に白河結城氏と戦って破れ落城しました。その後、義篤はことごとく保内の地を治め、滑川六郎をして城を守らしめたと伝えられています。池田に関して、滑川、斎藤、関、野内氏らが知行を充行われていますが、この古館に誰が居住していたのか不明です。
現在も、宿平、平山、横峯、戸ノ内、馬場添、中内の小字名が残っています。

 

  • 区分:遺跡(周知の埋蔵文化財)
  • 種別:城館跡
  • 所在地:池田字宿平55ほか
  • 時代:中世

地図を見る:池田古館跡

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