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大雲寺観音堂
観音堂は、梁間3間、桁行4間、寄棟造、銅板葺、正面軒に唐破風を設けています。軒廻りは一軒繁垂木、組物は出組とします。屋根は、当初芽葺きでしたが、数回の改修を経て、昭和54年(1979)に現状のように芽葺きの上に銅板で覆ったものになりました。建物は開口よりも奥行の方が深くなり、堂内は密教本堂の通則に従い、内部空間を格子の結界により内陣と外陣に分けるが、内陣に来迎柱を建て須弥壇を据える点はやや異色です。来迎柱の組物は、寛永時代の様式を帯びています。
柱は欅丸柱とし、柱上に出三斗(枠肘木)を乗せ、突出した斗の上に拳鼻風の組物を乗せます。中備は、正面中央に蟇股を用い、その他は宝珠の変形とでもいうべき間斗束を用いています。これら拳鼻風の繰物や変形の間斗束は、他に類例を見ない独創的な細部様式です。柱頂部は頭貫でつなぎ、建物の四隅でこれを突出させて象鼻風の木鼻としますが、交差するものにア・ウン風の(仁王像の口の開・閉のような)違いを見せるのは、県北に残る中世末建築の特色を示すものと考えられます。軒廻りは、垂木を一重とする一軒形式ですが、これも先端で反り増しの技法を残す点で中世末的です。
細部様式に中世末の雰囲気を残し、しかも他に類例のない独創性を示すなど県内でも極めて価値の高い寺院建築です。
建築年代については、宝暦5年(1755)に書かれた古記録の写によると、慶安3年(1650)再建とあり、細部の絵様、組型全てがそれを裏付けています。なお、鰐口には、「宝暦四戌四月吉日 當寺十五世住□□海……」などの刻銘があります。
大雲寺は、解脱山清龍院と称し、町付慈雲寺の末寺、真言宗智山派です。前記古記録の写によると、永正17年(1520)、慈雲寺良雄(良雅)法印の弟子宥傳法印の開創であるといいます。天保年間に廃寺、弘化3年再建、明治維新に際して寺禄を失い、明治35年、大暴風により本堂・庫裡が倒壊しました。
観音堂は、天文16年(1547)の建立で、道竹聖人(尾張国因幡の人)の開基です。その後、この堂は、慶安3年に再建されました。
附属資料の大般若経は、その数600巻を数え、経箱の蓋裏に「元文六(1741)龍集辛酉歳 仲春吉晨 大経六百軸十二世見海求之追而経筥十三代住鏗祐求焉尋」との記録があり、経典にはそれぞれ文化・文政期を中心とした寄進年月日と寄進者名が記されています。現在、正月と盆の年2回、この経典の仏事を行っています。
境内の宝篋印塔は、高さ12.4尺(約3.76m)を測り、「宝永六年(1709)大工信州高遠城下的場住 矢澤七エ門善四郎」と刻字されていて、観音堂の歴史的過程を知るうえで重要な資料となるものです。
附属
大雲寺観音堂
(大般若経)
大雲寺観音堂
(宝篋印塔)
- 区分:大子町指定文化財
- 種別:建造物
- 員数:1棟 附属、大般若経600巻、宝篋印塔1基
- 所在地:中郷1274
- 指定年月日:平成9年3月28日
地図を見る:大雲寺観音堂
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