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十二所神社春季例大祭
大子7町内会の屋台が曳き回される祭礼は、十二所神社の春季例大祭です。十二所神社は大子町大子に鎮座し、その氏子は本町・近町・泉町・小久慈・栄町・金町・愛宕町・長岡の8町内会です。このうちマチウチと呼ばれる町内会、本町・近町・泉町・小久慈・栄町・金町・愛宕町の7町内会が、春季例大祭で屋台を曳きます。
十二所神社は、社伝によると神亀4年(727)に当地方の開発守護神として祀られたとされ、江戸期には佐竹義宣や徳川光圀などの領主の寄進を受けました。明治6年(1873)には村社に、同40年(1907)には供進指定社に列せられましたが、同43年(1910)本町に大火があり、神社も類焼して社殿神宝全てが焼失しました。そのため、翌44年(1911)に現在のだいご小学校の地に社殿を造営し、遷座しました。しかし、その地も小学校敷地の拡張により移転を余儀なくされ、代替地の後山の現在地に社殿を造営し、鎮座しました(『十二所神社 参拝のしおり』)。
現在の社地は、本町の通りに面する通称「百段階段」と呼ばれる参道を通り、だいご小学校の脇を抜けて一旦車道に出て、さらに石段を上った丘陵中腹に位置します。江戸期の絵図によれば、十二所神社は「十二所明神」として現在地よりさらに西方の場所に鎮座しています(『常陸国北郡里程間数之記』)。この地は現在、元宮と呼ばれる場所と推定され、2月11日に本殿での建国祈年祭の後に当地での元宮祭が執行されます。
十二所神社の祭礼は、春季例大祭と秋季例大祭の二度行われます。春季例大祭は毎年4月22日から23日、秋季例大祭は10月11日から12日に行われます。春季例大祭は、大正6年(1917)に愛宕神社を合祀したことが契機となって行われた祭りであるため、その名残で「愛宕祭」ともいいます。しかし、その後愛宕町で火災が頻発したので、再び愛宕神社を愛宕山に遷座して末社として祀るようになりました。現在、御出社の年の祭礼は5月の連休に合わせて行い、平成25年(2013)は5月4日から5日に行われました。
ところで、十二所神社の春季例大祭では、毎年屋台が曳行されるわけではありません。神社の神輿が神幸する年だけであり、しかもその年の当番町が屋台を出すと決定し、そのほかの町内が協賛してはじめて7町内会の屋台がそろうことになります。神輿の神幸は4年に一度で、神輿が出御して仮殿に遷り、マチウチを巡行して本殿に還御するまでの一連の祭礼を御出社(ごしゅっしゃ)(祭礼)といいます。それ以外の年は居祭礼(いさいれい)といい、神輿は氏子のマチを巡行しません。
当番町は、まず神輿の渡御とそれに供奉する行列の役割を采配し、さらに屋台を出す場合は、他町内会の屋台のとりまとめも行います。特に、平成25年の御出社では、交通規制が厳しくなり、その手配が煩雑であったといいます。このような4年に一度の仕組みを整えていったのは昭和55年(1980)からであり、それ以前は当番町の采配で毎年春か秋に屋台を出していたこともありました。
現在、当番町は同じ年の春と秋では異なり、春の当番の3年後に秋の当番に当たるようになっています。7町内会の輪番制で、本町→近町→泉町→小久慈→栄町→金町→愛宕町という順番です。これが4年に一度の御出社に重なると、どの町も28年に一度、御出社の年の春季例大祭の当番が回ってくる仕組みになります。祭典委員長は、当番町の大世話人(町内会長)が当たり、祭りを全て取り仕切ります。同様に、当番町の若連会長が7町内会の連合若連会長となって、神輿の輿担ぎと屋台の巡行を取り仕切ります。
- 区分:その他の文化遺産
- 種別:無形民俗文化財
- 所在地:大子426-1(十二所神社)
地図を見る:十二所神社春季例大祭
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