大子町の文化遺産について

大子町の歴史

水利に恵まれた大子町縄文時代から人々の営みがある

画像:大子町の歴史

 久慈川とその支流の広がりにより水利に恵まれた大子町では、縄文時代から人々の生活が営まれてきました。
 この地方は鎌倉・室町時代に、多くの城館が築かれ、白河結城氏や岩城氏、佐竹氏らの攻防の場となり、やがて戦国時代に佐竹氏の支配下におかれました。佐竹氏の支配のもと、太閤検地が行われるなど領国支配が強化され、また金山開発が進められ、当時全国第四位となるほどの金の産出量を誇りました。
 江戸幕府が成立し、慶長7年(1602)に佐竹義宣が秋田へ移封されると、水戸徳川氏の領有するところになりました。陣屋や郷校が置かれ、水戸と奥州の南郷地方を結ぶ南郷街道などが通り、久慈川の舟運も盛んで、政治・経済・文化の中心地として栄えました。産業では金採掘や紙・茶・漆・たばこ・馬産が有名なほか、とりわけこんにゃく栽培が盛んで、水戸藩の専売品として藩財政を支えました。
 やがて幕末の尊王攘夷運動が広がる中、水戸藩内の抗争が激化し、この地方もそれに巻き込まれ、天狗党と保守派による内戦の場となり、多数の犠牲者を出しました。
 明治時代を迎えると、この地方は明治4年(1871)7月の廃藩置県により水戸県に属し、同年11月には茨城県に属するようになりました。地方制度の変革は急速に進み、明治22年(1889)の町村制で成立した大子村は、明治24年(1891)8月に町制を施行して大子町となりました。
 同時に交通網も発展し、明治36年(1903)に現在の国道118号となる県道が改修され、昭和2年(1927)には大郡線(現:水郡線)が常陸大子駅まで開通し、交通の便が飛躍的に発達しました。
 この地方は「保内郷(ほないごう)」と呼ばれています。平安時代末期に成立した「陸奥国白河郡依上保(よりかみほ)」からきた名称だといわれています。以来、保内郷は1町8か村として長いあいだ歩んできました。そして戦後の町村合併の機運が進む中、昭和30年(1955)2月に1町8か村が一斉に合併議決を行い(下小川村は、那珂郡山方町と大子町に分村)、同年3月31日、現在の「大子町」が誕生しました。

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