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如信上人終焉の地

画像:如信上人終焉の地(法龍寺) 

 如信上人終焉の地は、浄土真宗の開祖親鸞の孫で本願寺第二世とされた如信が入滅したところです。
如信は、親鸞の息子慈信房善鸞の長子で、嘉禎元年(1235)の生まれと伝えられています。弘安3年(1280)、親鸞の末娘覚信尼に迎えられ、大谷の御影堂(大谷廟堂、のちの本願寺)留守職を勧めましたが、その職を従弟覚恵に委ねて東国に下り、常陸などを巡って奥州大綱の地に錫を留め、教化に従いました。常陸奥郡における門徙の広まりを追って奥州に入ったと思われ、教線は古代からの久慈川に連なる道筋に沿い、修験者による山林修行の面影を残す天台系の浄土真仰に接しながら布教の場を得たと思われます。その中で、金沢の地には太子堂があり、如信はこれを道場として門弟の乗善房信海に守らせたと伝えられています。
金沢の地は、陸奥国産金の地として古くから知られる八溝山一帯における採金の地の一つであり、そこには金掘りたち山の民の信仰する太子堂がありました。これを如信は道場としたのです。初期真宗では、阿弥陀信仰、浄土高僧鑽仰と並んで、聖徳太子信仰が重要な要素となっていました。宗祖親鸞が京都六角堂に参寵中、聖徳太子の示現に接して法然門下となったいきさつから、初期真宗門徒の聖徳太子への信仰は篤かったのです。
当時、太子堂は、金沢の地の鎌倉館山頂(字堂向)にありました。正応2年(1289)8月、乗善房は、この太子堂のよく見える地に草庵を結びました。この時、如信が手づから植えたと伝えられる榧の大木が、今も数百年の長い時の流れを刻んでいます。乗善房は、如信を中心とする大綱門徒の一人で、奥州白川郡竹貫の出身、俗名を右京大夫義乗といい、もと法相修験の一人であったといわれています。一方、金鉱採掘が戦国大名により大規模に行なわれる以前、古代から中世にかけて金掘りたち山の民を掌握し、組織化して採金の経営に当たったのは、入山修行を積んだ修験者であったともいわれています。これらのことは、当地方における古代からの天台浄土教や修験道的山岳信仰と如信が金沢の太子堂を道場とした初期真宗の教線とを考察するとき、金沢道場と乗善房の草庵は、重要な意味をもっているといえます。
如信は、毎年11月には京都大谷に上り、宗祖親鸞の報恩講を勤めていました。その帰途、正安元年(1299)12月、門弟乗善房の請により金沢の草庵に入りましたが、やがて病床に臥し、翌正安2年(1300)正月4日、この地で遷化しました。
金沢草庵には、おそらく如信の廟宇が設けられ、遺骨が収められたと思われます。応長2年(1312)に覚如上人(本願寺第三世)が如信13回忌の法要を修したとされ、その折りに植えたといわれる銀杏の大樹の根本は、如信の墓所となっています。また、近くには乗善房の墓もあることから、乗善房もまたこの地で入滅したと思われます。
その後の金沢草庵の経緯は不明です。江戸時代になって、延宝2年(1674)、水戸藩主徳川光圀はこの地に20石の寺領を寄進し、寺観を整えたとされています。おそらくこのとき、金沢の草庵と如信の廟宇は新たに寺院として改修され、新堂宇が建立されたものと思われます。堂宇には、光圀の寄進とされる塑造の如信上人坐像が安置されています。また同時に、鎌倉館山頂の太子堂もこの一画に移され、新堂宇が建立されて、新たな木造の聖徳太子立像が納められたといわれています。ただこの新太子堂が実際に建てられたかどうかは判然としていません。聖徳太子立像は、如信上人坐像とともに改修された寺院に安置されたのかもしれません。この寺院がいつ寺号を名のったかはっきりしていませんが、法龍寺と称されて今日に至っています。
現在、法龍寺祠堂には、本尊の阿弥陀如来立像をはじめ聖徳太子立像、如信上人坐像が安置されています。なお、法龍寺は、平成7年(1995)に如信上人御廟所として本堂が再建され、境内が整備されました。
如信上人終焉の地は、現在、墓地、法龍寺境内地及び山林などからなっていますが、指定区域は境内地のみに限ることとされました。境内地には、宝永4年(1707)建立の山門、如信上人手植えの榧1株、明和3年(1766)建碑の如信上人墓石などがあります。
山門は四脚門で、屋根は切妻造、鉄板茸。柱と柱を頭貫で結び、四隅で突出させて象鼻風の木鼻とします。柱は欅丸柱とし、柱上で斗の上に繰物を乗せます。親柱の一つに「于時宝永第四丁亥稔五月大吉祥日 安泰……」と墨書きが確認されています。また、如信上人墓石は、関思恭(鳳岡)の書で、背面に「明和三丙戌年冬十一月 拝迹建碑 願主 塚田六郎兵衛長氏」と刻字されています。
なお、指定区域からは外れますが、墓地には如信上人と乗善房の墓があり、如信の墓所には銀杏の大樹が墓標として植えられています。この銀杏は、応長2年(1312)正月、覚如上人が如信13回忌の法要を修した折に植えたと伝えられるもので、幹周り(目通り)11.1m、樹高32.5m、樹齢約700年を推し量るものです。

画像:如信上人終焉の地(山門)画像:如信上人終焉の地(如信上人の墓)

  • 区分:大子町指定文化財
  • 種別:史跡
  • 所在地:上金沢1684-3(法龍寺)
  • 指定年月日:昭和50年9月12日

地図を見る:如信上人終焉の地

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